●ダブリンとは

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ダブリンは、アイルランド島東部の都市で、アイルランド共和国の首都です。リフィー川河口に位置し、その南北に町が広がっています。

ダブリンは、アイルランドの政治・経済・交通・文化の中心地で、アイルランドの全人口の3分の1がダブリン首都圏に集中するアイルランド国内最大の都市と言えます。欧州有数の世界都市であり、重要な金融センターの一つになっています。

市内にはアイルランド人の権利の拡大に尽力した人々やイギリスからの独立運動のために命を落とした活動家の名前が記念日や通りの名前に多く見られます。ダニエル・オコンネルに因む町の目抜き通りのオコンネル通りやパトリック・ピアースにちなむピアース通り、コノリー駅などが例に挙げられます。これらは本来は別の名前がつけられていましたが、1921年の独立後に改名されたものです(オコンネル通りはかつてはサックビル通りと呼ばれていました)。

●ダブリンの歴史

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2世紀のアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスの文献には、「エブラナ」と記されている地が現在のダブリンとされています。

住民であるケルト人は291年、レンスター軍との戦いで勝利をおさめました。ダブリンのアイルランド語での名称ブラー・クリーは、この勝利のあとにつけられた名称と考えられています。

ダブリンは、アイルランドの歴史の中でしばしば重要な役割を果たしてきました。また450年ごろにパトリキウスによってキリスト教に改宗しました。

9世紀半ば頃、リフィー川から攻め上がってきたノルマン人ヴァイキングが、ここにあったケルト人の町を破壊して城砦を築き、これをゲール語で「黒い水たまり」を意味する「ドゥヴ・リン」Dubh Linn と呼んだのが町の英名の由来とされています。現在のダブリン城の地下にはその当時の遺構がうかがえ、またこの城の裏の庭がそのかつて「黒い水たまり」と呼ばれていた地域です。

これにつづく3世紀の間、アイルランドの住民はデーン人からたびたびダブリンを奪回しました。1171年、デーン人はイングランドのヘンリー2世にひきいられたアングロ・ノルマン人によって追放されました。

ヘンリー2世は翌1172年にダブリンに宮廷をおき、ここをイングランドの都市ブリストルの属領としました。こうしてダブリンはイングランドのアイルランド支配の拠点となったが、1534年に反乱がおき、アイルランドの愛国者フィッツジェラルドが一時支配しました。

17世紀、イギリスのピューリタン革命の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲されました。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803、47、67年にも蜂起がくりかえされました。1916年と19~21年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっています。

歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心でした。現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン・スクエア周辺にアイルランド共和国政府の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えています。

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